石鹸をそんなに使わないでください

さといものブログです

Wi-Fiが弱すぎる

 やっぱり文章なんて書けないではないか。ぼーっとブログに書きたいことを考えるが全然アイデアが出てこない。ブログは何かに追われて書くものではないので、書かなければ、と強迫的な状態に晒されるのもおかしな話だな。でも自然に書きたいことが出てきて自然に書いてしまうようなことってあんまりないのかもしれない。書くという行為が習慣づけられてはじめてなんとか書けるようになる。自然に書けると思っている人は、過去の蓄積、染みついた手癖のようなものがあって、それで書けるようになっている。ということは、書ける人ってちゃんと書いてきた人なんですね。みんなえらいな。

 

 ブログ初期にありがちな苦悩みたいな文章。

 

 自分には「自然であること」に対する一種の信仰があった。し、いまもそういう節はまだ残っていると思う。根深い。まったく関係ないけど、不意にグルジアに旅行したときの感覚、観光もせずに宿2階のドミトリー2段ベッドの下側でパンを食べながら携帯みてたときの虚しさがいま身体に現れた。現在において何かを思い出して感じるときに、それが過去に見たものや感じたものと同じだとわかるってどういうことなんだろう。例えば、自分には、むかし読んだ本に出てきて思い浮かべた風景が現在に突然に現れてくることがある。それら風景の同一性を保証するものは何もないのだけれど、確かにあのとき浮かべた風景と同じなのだと信じることができる。これは一体どういう感覚なのでしょう。

 自然であることについて話をしようとしていた。自分は自然であることを信仰していた。その信仰の影響からか、人を気遣える人が苦手だった。人を気遣う行為が、無理をした不自然なものに見えてしまったから。一度、そのような人に、人を気遣ってばかりで自分のしたいことをしているように見えない。不自然だ。というようなことを言ったことがある。怒られたし悲しまれた。したいことをしてないわけではないと弁解されたが、その弁解の頑なさにまた不自然さを感じてしまった。

 どうして自然であることの信仰をやめてしまったのか。どうしてだったろう。自然であることを信仰していたのは、自然さに従い振る舞うことが自由であること、自分がしたいことをできていることだと思っていたからだった。いつだったか、それは勘違いだと気づいた。自然であることにむしろ自分は縛られていると気づいた。なんかもう少し書くことがある気がするが疲れてしまった。危なくて埃くさくて何度も訪れたくはないような嫌な街。その片隅の安全なホテルのベッドの上でだらだらしているだけなのに。

 別に自然じゃなくてもいいんだな、と思うと行動へのこだわりがいい意味で薄まって、いろんなことを選択できる気がする。めんどうだけど人への気遣いをやってみるとか。めんどうだけど特に何もなくても日記を書くとか。ちょっと不自然になんとかやっていく。めんどうだけど。