石鹸をそんなに使わないでください

さといものブログです

夢と日記と劇

3月25日(月)

 

 まずは誰も興味のない夢の話から。穴ぐらのような屋根裏部屋から遥か階下に3本の梯子が伸びている。屋根裏は暗いが下では温かなだいだいのランプがゆれる、その明かりが漏れてくる。自分は梯子の長さと不安定さに降りるのをためらう。ゆらゆらとふらつきながらもバランスを保ち梯子を固定、階下に至る。壁一面に本とレコードが埋めこまれている。女性歌手の歌謡曲のカセットテープを1本2万円で3本買う、母が選んでくれた。円柱型の缶に入った3本のカセットはひどくぼろでテープもところどころ擦り切れそうに見える。

 

 起きる。この頃は家がないので研究室で寝泊まりしている。コーヒーを淹れにパントリーに行くとエルサレムの朝の匂いがした。淹れたコーヒーを持ってベランダに行く。コーヒーを飲みながら煙草を吸っていると、聞き慣れない鳥のさえずりが聞こえる、ふいにイヤホンを外してみる。けれどもすぐにまた音楽が聞きたくなってイヤピースを耳にねじこんでしまう。朝の横断歩道、その往来を高みから眺める。朝の勤めを終えた幼稚園の送迎バスは談笑する保母さんでいっぱいで、子供のためのものと思っていたバスの意外な用途にちょっと驚いてしまう。

 

 昨日の話。吉田寮食堂春のオールスター感謝祭というイベントでジョジョ劇という演劇を見てきた。ジョジョ五部ブチャラティとプロシュート・ペッシの戦闘シーンを擬音・擬態語も含めて全力で読み上げ演じるという内容。演者は5人、各々に固定した役が当てられているわけではなく、攻守がめくるめく入れ替わる戦闘展開よろしく、流動的に演じる役が交代していく。終幕後には「同じキャラに対して役者がころころと変わるので途中で筋書きを追うのを放棄してしまった」といった感想も聞こえてきた。自分はその劇のやり方を、常に違和感がありながらも危ういところで劇を成り立たせるものとして楽しんだ。

 昨年、アにいる半年の間に自分は髪とひげを少し伸ばすようになった。以来、これまでになく自分の顔にしっくりきている。しっくりきているというのはたぶん自分の見た目と人格の相性に自分で納得がいっているという感じ。そこには、見た目と人格は切り離せないもの、あるいは見た目は人格を構成する一部であるという考えがあるように思う。

 役者とキャラクターが場面ごとに切り替わる、見た目と人格の不一致に対する違和感を、この演劇は危うくも乗り越えているように自分には見えた、それが自分にはおもしろかった。その綱渡り感覚は、ジョジョの登場人物という激烈なキャラクターが見た目を凌駕した効果に支えられているのか、はたまた見た目と人格に関係を求めるという自分の感覚がそれほど自明ではないということから来るのか。結局なにもわからなくなったというところで、深めることなく話はおしまいです。

 

日記

 アで撮ってきた動画を見直そうと開くたびにパソコンがフリーズして作業がおじゃんになってしまう。それを数回繰り返した。そんなのってないよ。日記いきます。

 

2月23日(土)

 大阪であるライブに行く。三組の出演で弾き語りが中心、最後にちょこっとバンドでの演奏がある。ワンドリンクは何にしようか。ウィルキンソンの瓶のジンジャーエールと迷うもハートランドを頼む。昼から酒を飲み演奏と歌を聴く、それに優る幸福は多くない。

 会場はおしゃれな家のリビングみたいな感じで、舞台と観客席は段差なく地続きになっている。演者の一人は曲の合間の語りで「ここの会場、無印良品みたい」と形容していた。だいたいそんな感じ。自分が会場に入るとまだ席はすいていて、最前列に広島風お好み焼き(いろいろと戦争が起こる名称らしいがこのお店ではこうだった)を食べながら月刊住職を読む、自分と同年代かやや年上の青年があぐらをかいている。人が次第に増えてくる。

 開演。京都の女性シンガーソングライター。ツイッターでちらと見かけたファーストアルバムのジャケットが気になって、今日はこの人を目当てにきた。演奏中、会場のあちこちを走り回る男の子がいて、彼は演奏などまったく気にも留めない。会場の座布団を島に、海原を渡る彼の耳にはどんな音楽が流れているのかが気になる。曲が終わって演者が「もっと走り回ったらいい」とぼそりとつぶやいていたのがよかった。

 閉演。あとの二組もよかった。「普通の日は」というタイトルのライブだった。2年前のクリスマスのイブのイブ、京都みなみ会館のオールナイト上映「オーディナリーなライフにブリリアントな瞬間があるんだよナイト」に行ったのを思い出す。面倒でダイコクドラッグの煎餅で済ますお昼ごはんとか、直さずに放置しているシャツの袖ボタンとか、パソコンに向かい右手でいじるひどく傷んだ髪の先とか、これが自分の普通の日。ていねいなくらしの外にもブリリアントな瞬間はあるんだろうか、あったらいい。

 

2月24日(日)

 昼間は研究室で作業して、たまに行く中華料理屋で夕飯を食べた。よくいる中国人の若い店員二人はいなくて、今日は中国人のおばちゃん一人だった。春休みだからかな。そのあと、元田中あたりであるDJイベントに行った。たくさん飲んでたくさん踊った。よく行く飲み屋の常連のお客さんたちと半年以上ぶりに会うとかした。いい休日だった。

 

日記

2月6日

 アフリカから帰ってきたら家がなかった。いや、家など元からなかった。かつては路上で生活していた。荒神橋の下、日がな鴨川を眺めて時々はヌートリアと遊んだ。春夏はこれでもよかった。でも今は冬だ、家を求めた。

 運はほどよくある方だ。数日で家に招き入れてくれる人が現れた。それまではある研究室の書棚と書棚の間にヒモを引っ掛けて洗濯物を干したり、机の下に潜って夜を明かしたりしていた。それでもなんとかなりそうだったが、家はあったほうがよい。

 家主は聖人だった。独り身であるが大きな家に住んでいた。理由は聞かなかった。好きにしていいよと空き部屋を一室貸してくれた。毎日朝晩二食つくってくれる。映画は見放題。広いお風呂で脚伸ばし放題。申しわけ程度に皿洗いだけは自分の仕事として全うする。

 そういうわけで、今は他人の家で生活している。いわゆるヒモというのかもしれない。春になったら出ていく、ただそれまでの契約関係。ところで契約でない関係性というものはあるだろうか。血縁という生物的なつながり、婚姻、恋人、友人や単なる知り合いという関係まで連続的に、あらゆる関係性はいくぶん契約的な性質を持っている。まったく見知らぬ人にだって、特別な状況でないかぎり急には挨拶しないことがひとつの契約になっている。契約の定義が雑すぎる。

 

 この1週間で38度を超える熱を2回出し、ほとんど外出せず床に臥せっていた。ただひたすらYouTubeを眺めるだけの時間が続いた。すべきことは多くあるが何もできなかった。焦りを感じながらも無限に沈むベッドに体を預けているような意識の微睡みは心地よかった。

 

 

2月20日

 下書きに文章を放置したまま2週間がたった。2回熱を出したのち、さらに病状は思わぬ方向へと悪化した。詳細は略するがかなり稀な病気のようで、診断が出たときに笑ってしまった。今は幸い体調に問題はないが再発の可能性もあるらしい。不謹慎かもしれないが、ただおもしろさと引き換えに少しく再発を望む自分がいる。

 

月の裏側を通る雲

 大学1回生の秋。雲が月の裏側を通ることをはじめて知った。雲は厚く月を隠すものとばかり思い込んでいた。何のことはない、月があまりにも明るい夜には、その光が薄雲を透過してしまうというだけのことなのだ。

「月の裏側を雲が通っていたんだがどういうことなんだ」という自分の問いに対する「月が明るすぎるからだよ」という素朴な答え。

 この一往復だけの会話のやりとりに自分は辱められてしまったように感じた。複雑な理論に詰められるでなく、誰もが直観できる素朴さに丸め込まれたことで、喉元がなんだかかゆくなってしまった。自分は生まれてから20年間、自分の頭上で反復されていた素朴な事実を無視して過ごしていたのか。喉元のかゆみはアブラヤシの実に着いた残り火のように尾を引いた。尾を引いたかゆみは次第に、世界の素朴だがつぶさな観察が人を驚かせてしまうという事実への称賛へと変わっていった。

 ある小説の一場面、薄く雪の積もる道を歩いている男女。会話の途切れたところで男が一息、右手に持っていた鞄を左手に持ち直す、その描写。それだけの描写にある時、自分は面食らってしまった。誰もが観察できることであるが普段は意識に上らないような動作や出来事、それを改めて述べてしまうこと、急に図と地がひっくり返った。カメラのピントが狂わされたことに不可解にも愉悦をおぼえた。詳細な出来事の開陳はそれだけで美しい。

 そんなことを考えながら薄暗い鴨川沿いを歩いている。雲が月の裏側を通るたび、少しの恥ずかしさに手癖で喉元を掻いてみる。

Wi-Fiが弱すぎる

 やっぱり文章なんて書けないではないか。ぼーっとブログに書きたいことを考えるが全然アイデアが出てこない。ブログは何かに追われて書くものではないので、書かなければ、と強迫的な状態に晒されるのもおかしな話だな。でも自然に書きたいことが出てきて自然に書いてしまうようなことってあんまりないのかもしれない。書くという行為が習慣づけられてはじめてなんとか書けるようになる。自然に書けると思っている人は、過去の蓄積、染みついた手癖のようなものがあって、それで書けるようになっている。ということは、書ける人ってちゃんと書いてきた人なんですね。みんなえらいな。

 

 ブログ初期にありがちな苦悩みたいな文章。

 

 自分には「自然であること」に対する一種の信仰があった。し、いまもそういう節はまだ残っていると思う。根深い。まったく関係ないけど、不意にグルジアに旅行したときの感覚、観光もせずに宿2階のドミトリー2段ベッドの下側でパンを食べながら携帯みてたときの虚しさがいま身体に現れた。現在において何かを思い出して感じるときに、それが過去に見たものや感じたものと同じだとわかるってどういうことなんだろう。例えば、自分には、むかし読んだ本に出てきて思い浮かべた風景が現在に突然に現れてくることがある。それら風景の同一性を保証するものは何もないのだけれど、確かにあのとき浮かべた風景と同じなのだと信じることができる。これは一体どういう感覚なのでしょう。

 自然であることについて話をしようとしていた。自分は自然であることを信仰していた。その信仰の影響からか、人を気遣える人が苦手だった。人を気遣う行為が、無理をした不自然なものに見えてしまったから。一度、そのような人に、人を気遣ってばかりで自分のしたいことをしているように見えない。不自然だ。というようなことを言ったことがある。怒られたし悲しまれた。したいことをしてないわけではないと弁解されたが、その弁解の頑なさにまた不自然さを感じてしまった。

 どうして自然であることの信仰をやめてしまったのか。どうしてだったろう。自然であることを信仰していたのは、自然さに従い振る舞うことが自由であること、自分がしたいことをできていることだと思っていたからだった。いつだったか、それは勘違いだと気づいた。自然であることにむしろ自分は縛られていると気づいた。なんかもう少し書くことがある気がするが疲れてしまった。危なくて埃くさくて何度も訪れたくはないような嫌な街。その片隅の安全なホテルのベッドの上でだらだらしているだけなのに。

 別に自然じゃなくてもいいんだな、と思うと行動へのこだわりがいい意味で薄まって、いろんなことを選択できる気がする。めんどうだけど人への気遣いをやってみるとか。めんどうだけど特に何もなくても日記を書くとか。ちょっと不自然になんとかやっていく。めんどうだけど。

 

夢日記 昼寝の夢

ただの夢の話です。

 


〈夢の中の夢=夢1〉


年齢が十ほど上の女性と居酒屋にお酒を飲みにきている。建物は古びているが思ったより広い。入ってすぐ、ダンスホールのようなだだっ広い空間があり、奥に進んで右手の方にカウンター席がひっそりと現れる。店内はヴェイパーウェイヴ風の赤みがかった浮遊感のある照明でアルコールを口にする前から酔ってきた。

最初はカウンターの左端に横並びに座り、刺身とビール、日本酒を。手で掴んだ刺身を醤油につけ一度カウンターの下に隠してから食べるという一連の動作を隣席の彼女にばれぬよう遂行する。マグロの赤身だった。

途中で隣に知り合いがやってくる。席をカウンターから晩餐会風の長テーブルに移る。ポマードを塗りたくったややリーゼントのちょっとめんどくさい男が絡んでくるが、変なテンションで乗り切る。かなり飲んでしまい一緒に来た彼女は自分に寄りかかって寝てしまう。それを置いて自分は居酒屋を出る。


〈夢1から覚めた世界=夢2〉

帰ってから、あれは夢の世界の話だったのではないかと疑う。そして確かにあれは夢だった。しかし酔った彼女を置いて支払いもせずに帰ってしまった罪悪感からその店を探しに戻ることにする。

戻る道は国道の高架下の農道(滋賀から北陸のあたりによくある感じ)をひたすら行く。左車線の側道は長い工事区間が続いている。工事現場の人たちをよく見ると世界のナベアツなど全員がお笑い芸人だった。

不思議に思いながらも道を行くと、ダウンタウンをはじめとした『リンカーン』のメンバーに遭遇する。番組の企画で工事現場のお笑い芸人たちを見にきたらしい。彼らは自分たちが工事現場の芸人たちを一方的に超越的な視点から見ることのできるメタ的な存在=夢を見る実在の私なのか、自分たちもメタ的で超越的な何者かに見られ工事現場の芸人と同じカテゴリーに含まれる存在=夢の世界の住人なのか、ということに悩んでいた。悩みながらこっちとは逆方向へ歩いていく。

ここで夢2から覚める。


〈夢2から覚めた世界〉

帰ってきてから布団に横になりいつの間に寝てしまったのかわからない。とりあえず夢の内容をスマホでメモする。引っ越し用の段ボールをもらいに近所のドラッグストアへ行く。マイクポップコーンと半額のミルクティーと半額の木綿豆腐を買う。研修中の若い店員に不要な段ボールはありますかと聞くがわからないようで、ブザーを鳴らして中堅店員を呼ぶ。中堅店員は店内の奥へと段ボールを探しに行く。そのあいだこっちはゴキブリ駆除によく効くホウ酸団子の陳列を眺めていた。ドラッグストアをあとにする。

きょう食べたもの

サイゼリヤのペペロンチーノダブル温泉卵のせ

・ポップコーン

・ミルクティー

 

 

どどどどどどど どどどどど

 

自動筆記的に都都逸をする。

各回制限時間3分よーいどん。

 

〈第1回〉

今日は感じの がだがだなんて 運の尽きなら まだ早い

省の頭は 漢字のハジメ 策におぼれて 今日もだめ

アンチ銀杏 スペルベル 何時になったら すばらしい

トンネル効果で しょうもないこと 食べる人参 そこまでだ

単発に暮れる まじりっけのなさ あなたのことなら 死んでしまう

ちょっと待ってと 素朴なコロブス サモンナイトの メンソール

 

〈第2回〉

細胞の中に 存在があり ナマコの頭と ドッキング

キャベジン止まった 太古の終わり サンクチュアリーで そうめんの

たらふくの別 鯖の台北 なんかの感じ ただこれだけだ

届けてくれる 玉の輿かい ダイナミクスの 底なし沼

ここにいるのは 最後のあなた 死ぬ間際なら 態度はよし

畳の中の 面の中に こういうことなら いっぱいあった

何時になっても どういうわけか 正しいことでも わからない

 

〈第3回〉

賽の河原で 透明マント シメジのこれは もう無理か

ここまで来たら タイムマシンの 聡明な君 サイパン

個々のクロスは ニンニクミンチ 交流会なら サイパン

土間のこれでは 南蛮漬けの 好々爺とした 孫正義

ガガーリンなら そういうことね ただ明日のみ 煎餅汁

宇治の山奥 解雇の眠り たらふく食べては 貝が眠る

友達がいれば 聡明かなと 何時になっても 怪盗や

 

〈感想など〉

・思った以上に同じ音や語ばかり出てきてしまう(指示詞、か行・さ行の音、「今日」、「あなた」、「わたし」、「の中」など)

・同じ言葉ばかり出てしまうので意図的にかぶりをキャンセルして言葉を使った。その結果、自動筆記成分はけっこう薄まっている

・キーボードなので考える時間が生まれてしまう

・回数を重ねると慣れて語彙に幅が生まれるといったことは特に感じず

・完全に形式がフリーな自動筆記に比べて、都都逸といったリズムに形式を持ち込むことでどんな変化が生まれるんだろう(歌と話し言葉と書き言葉の関係)

・バーチャルユーチューバーが都都逸をしてるのを見てやった